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廃れゆく部屋

皆さん、廃でお会いしましょう


In 03 2014

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嗚呼、上水島の精錬所~前篇~



「誰もみな、冒険者」という言葉がある。


NHKで昔やってた「太陽の子エステバン」のオープニング曲の歌詞っス (∩´∀`)∩ワーイ




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という訳で、その日集まった冒険者たちは総勢7名だったかな。

釣り船に乗り込み、我々が向かうは上水島という無人島。

その島にはかつて銅の精錬所があった。




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この航空画像は1970年代のもの。

この頃の航空画像ならまだ煙突などが確認できる。

この島に一体何が残っているのか、ネット上ではまだあまり露出されておらず好奇心が刺激される。


さて、気合充分の僕は波しぶきを上げる海を見ながら「上水島へ、いざ参らん」とテンションを上げまくっていたのだが、

意外にも船はすぐに着いた。

メッチャ近いやんけ。





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砂浜に近づいた時、山の頂上に短く突起したものを目視で確認できた。

船の上から撮ったもので少し判りづらいけどそれは航空画像でも見える煙突だった。



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これは図書館で苦労して探した操業時の写真。

写真の向きが少し違うけど、山の形はあまり変わらないようだ。

山の上に3本の煙突が見える。

この真中の煙突がどうやら現在残っているものらしい。

両サイドの高い煙突は人為的か自然にか倒壊したようだ。

手前には瓦屋根の工場が山の麓まで続いており当時の繁栄を物語る。

写真右手には船着き場が見える。

当時、人はもちろんのことだが生活必需品や工場製品の荷おろしのため船はひっきりなしに往来していた。








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現在はただの砂浜になってしまった船着き場。

当時の写真からすると、この砂浜の右手奥には木造の精錬所が無数に建ち並んでいたということになる。

まったく十年一昔と言うけど百年経つと全く変わってしまうんな。






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まずはあの煙突を目指し、藪をかき分けながら山を登る。

昔の山道など全く判らなくなっていてる。

登山の途中、時々こういった銅の精錬所の産物であるカラミ煉瓦と出会う。

山の斜面に沿って造られたこの建造物はおそらく煙道だろう。




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煙突の手前まで来た。

あたりまえだけど銅の精練所と煙突は切っても切り離せない。

鉱石に含まれる硫黄成分から亜硫酸ガスが流れ出すことによって山林や農作物を汚染してしまう。

有害な煙を山の頂上まで煙道で運び、そこから高い煙突でさらに高い場所へ放出する。

鈴木精錬所が操業して間もない頃は沿岸の塩生、宇頭間など煙害の問題で大騒ぎだったらしい。

そんなわけで犬島や四阪島のように人口の少ない小さな島の土地を買い上げて操業するというのが常套手段になっていた。





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まるで古代遺跡かと思わせるような風格と崩壊ぶり。

積み上げられたカラミ煉瓦を見ていて判ったのだけど、どうやらここの煉瓦と煉瓦をつなぐ接着剤はモルタルではなく普通の粘土のようなものだったらしい。

なので風雨によって削られて大変崩れやすくなっていた。




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煙道から煙突につながる接合部分はもともとアーチ型になっていなかったのかもしれない。

真中にかなめ石があればこんなに崩れることもなかったのだろう。



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今残っているこの煙突も、もうすぐ完全に倒壊するかもしれない。




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こないだの地震でまた煉瓦の一つも落っこちたかも知んないな。

廃墟マニアって地震が起こるたびに色んな廃墟を心配するという変なシンドロームに悩まされている(知らんけど)




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さて、上水島には江戸時代のものと言われているお墓があると言うので行ってみた。

確かに「享保十八丑天」と横に彫ってある。

1730年代になるが墓の状態から言って、後に造り直されたのではないかと思う。

このお墓と精錬所の関係は不明。



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近くにもう一つお墓があった。

「大正元年八月 鈴木製煉所建之」とある。

このお墓は就業中に亡くなった従業員のお墓ではないだろうか。

表側には「故 職工」という文字の下に男性の名前が彫られていた。

江戸時代とされるお墓もこの大正時代のお墓もかなり草木に埋もれていて発見できたことは本当に幸いだった。

おそらく現在は誰も墓参りに来ることはないだろうけど、この記事見て行ってみようと思う人がいれば是非頑張ってください。





さて、そのあと僕らが探したのは分校跡。

しかし道と言えるようなものはなくただひたすら自分の背丈ほどの藪をかき分けて進んでいた。





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途中で人工物を発見。

あらかじめ仲間から頂いていた、「当時の建物などの位置関係を記した地図」を頼りに進んでいたのだけど、自分が立っている場所がどのへんなのかさえ正確には判らずこのセメントの人工物がなんなのか見当もつかなかった。

筒の中には錆びた釘が見える。ひょっとしたら木製の電柱が立っていたのだろうか。

しかし2~3メートル横に同じものがあったので鳥居が立っていたのかも知れない。





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分校を探していたらヘンテコな窪みを発見した。

僕は特に深くなっている部分を見てひょっとして火葬場跡かもと思った。

しかしこの後、似たような窪みを多数発見したのでどうやら違うみたいだ。




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山の中を彷徨い歩き、疲れ果てていた我々は全く何も見つけることも出来ずに落胆していたのだが少し広い場所に出たかと思うと煉瓦のブロックを発見した。

この時はたったこれだけのことで大騒ぎをした。

煙突を見たのを最後に、長い時間草木しか見てなかったからだ。

煉瓦の周りをモルタルが塗ってあるところからして煉瓦基礎だったのだろうか。






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そして古い土管をはじめ瓦や煉瓦が多数見つかった。

僕はそこの広さや地図との位置関係から間違いなく分校跡地であると確信した。





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少し先に進むと段差があり、降りて振り返るとそこにはカラミ煉瓦で出来た石垣が。

枯れ葉で覆い隠されているが間違いなく石垣がある。

ある資料によるとこの石垣の上にあったのは「下津井西小学校 水島分校」だったようだ。

しかしこの下津井西小学校という名称は昭和42年に使われ始めた名称で明治時代からは下津井尋常小学校と呼ばれていた。





DSC07637.jpg




「下津井小学校史」という本の中には「明治38年 水島に下津井尋常小学校の分教場を設置した(大正7年3月末廃止)とあった。

神戸の鈴木商店(この鈴木商店のことだけ調べてもかなりおもろいよ)が倉敷市の旧家小橋家から上水島を買い取ったのが明治32年。

そして鈴木精錬所としての操業が開始されたのが明治36年じゃけー、上記の明治38年に下津井尋常小学校の分教場が設置されたのは辻褄が合う。

資料によると分教場が廃止されたのは第二次世界大戦よりも前だったことからも遠からずという感じだ。


本当はこの上水島分教場の写真を一目見たくて図書館でもかなり探したのだけど見つけられなかった。

ま、別の方法を考えます。






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石垣の真中にどうやら階段らしきものがあるということで枯れ葉をどかしてみることに。

僕は落ちていた枝で掘っていたのだけど枯れ葉の下から中くらいのムカデが出てきたので一気にやる気が失せて仲間とバトンタッチしたのだった(写真の男性はバトンタッチした仲間のTさんです)

いやぁー、ぼかぁ虫が好きじゃないんだなぁ。



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出てきたよ階段が。

カラミ煉瓦で出来た階段はとても小さくて低学年の子供でも楽に登り降り出来ただろう。

当時、生徒数は40名を超える時もあったのだそう。




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学校の近くには建物の基礎らしき遺構があった。

定かではないけど教員宿舎だったのかも。





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そこから海に向かって坂を下る途中で神社を見つけた。


水島神社だ。

近くにあった石碑には「水島大明神 龍王大権現」と彫ってある。





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この狛犬の凛々しいこと。

今でもこの廃れた神社を護っている。




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この神社が建てられた所以は不明だが、もともとこの上水島の地は「雨乞い」の聖地だったらしい。

仲間から頂いた資料をもとに、話は鎌倉時代までさかのぼるのだけど倉敷市児島通生の古刹般若院の過去帳には弘安5年、文明4年、永禄元年と記録にあるだけでも三度雨乞いが行われ、いずれも大雨が降ったそう。

たとえば弘安5年の雨乞いの記録には、

「弘安五年六月 旱魃(干ばつ)す 衆人の願請に因って、水島に於いて

八大龍王を勧請し、請雨経の法を修すること一七日(一週間)

願忽ちに成就す、一日一夜大雨降り万民の喜悦巷に充」

とある。

恐るべし、雨乞いパワー。






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こんな小さな島でも従業員95人、その家族を合わせると63戸286人が住んでいた。

お百度石を見て、それぞれにはそれぞれの希望があり願いがあったんだなと思った。







後篇に続く



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03 14 ,2014 Edit


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