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廃れゆく部屋

皆さん、廃でお会いしましょう


In 12 2018

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Category: 廃れゆく校舎   Tags: ---

空棘魚小学校(仮名)





12月のはじめ、ギリギリ車中泊が出来るであろう季節。

三脚とカメラと毛布を一枚だけ車に放り込み、夕方から鳥取にむけて出発した。




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途中仮眠をとりながら朝7時ごろに到着。

このイケメンさんに会いに来た。

建てられたのは、なんと明治25年8月のこと。

五代目の古今亭志ん生が二歳の時というのだから驚きだ(知らんか)。



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玄関向かって右手に大きなシャッターを取り付けられているものの、窓などの建具は当時のまま。

この物件の存在をネットで知ったときにまだ現存しているのか疑った。

近くの商店に迷惑ながらお電話させていただき、現存を確認したので訪問。




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すでに知っていたのだけど、中は改築されていて当時の面影はほとんどというか全然ない。

ただ、築120年以上経っている校舎を外観だけとはいえ拝ませて頂けるのなら、

それも中国地方にあるというのなら行きましょうという気持ちになった。




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外観だけ撮って次に行く予定がそこはやはり廃墟好きなおっさんの悲しい性。

一階には何もないので念のため二階に上がってみる。

すると廊下だけは当時の面影を残していた。



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しかしこの小学校が廃校になったのはなんと大正6年の事。

その後中学校として少しの間使われたが、間もなく母子家庭の世帯が住む「母子寮」としても活用された。

この母子寮説はネットに書いていないのだけど、複数の地元民(かなりご高齢の方々)から証言を得たので間違いないと思う。




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このNHKのステッカーは母子寮の頃の名残だと思われる。

他の部屋の入り口付近にも貼ってあった。




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この地域はもともと宿場町。

地元の方の話では母子寮のあと紆余曲折があって旅館として使われたらしい。

ある映画のロケ地にもなったそうだ。

天井には火災報知器が見える。







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若い人には衝撃が大きいかも知れないけど、若かりし頃の美川憲一。

完全に男やね。

ちなみに「釧路の夜」は1968年に発売後ヒットし、この曲で第19回紅白歌合戦に出場した。

「女心も知らないで~あなた~が~憎~い~」

ようつべで聴いたけど良い曲じゃったよ。



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開校時、校舎の一階には職員室、校長室、そして二つの教室があり、二階にも教室が二つあったようだ。

建設当時はまだ三学級しかなかった。

実はこの校舎が建つ前の明治6年からこの場所には小学校があった。

資料によるとその頃の生徒は男子40名、女子16名で授業料は月に9円80銭。




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しかしまだ校舎と呼べるような建物ではなかったらしい。

生徒数も増えてきたのもあり、この擬洋風建築の校舎を建てることになった。





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明治41年には6学級が存在しており生徒数も合計270人を超えた。

この年、皇太子殿下(つまり大正天皇)が鳥取に来られるとのことでこの小学校から児童代表を引率し鳥取に出向したそうだ。

児童代表だった子はきっと緊張と興奮で寝られなかっただろうなぁ。




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この校舎に来た時からこの「木瓜紋」が気になっていた。

調べてみると近くの神社の「神紋」に一部これと同じ紋様が使われているので関係があるのかもしれない。

それとそもそも「木瓜紋」というのは鳥取県で2番目に多い家紋だそうだ。




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この階段は実際に古いものだけど、この校舎にもともと据えられたものではないようだ。


長い年月のなかで何度も改修工事が行われたようであちこちでその跡を見ることが出来た。




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この胴差し?にある凹みは床梁があった跡だと思うのだがどうだろうか。

図書館で見つけた資料によると校舎建設当時、階段は正面玄関を入ってすぐの左右に一つずつ端に向かって伸びていた。

現在、階段は逆に端から中心に向かって伸びている。

恐らくは母子寮として使われた頃の昭和20~30年代くらいに据替らえたのだと思う。

しかし当時の事が分かる資料は乏しく、さらにご近所に聞き込んでみたがあまり情報は得られなかった。

なにせ大正時代には廃校になった建物。

この校舎の明治~大正期について詳しく知っていた方は、皆すでに世を去っている。




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この小学校は昭和50年に町の保護文化財に指定されているものの、どうみても放置されているようだ。

確かにこれくらい古く朽ちた建物を維持管理していくなら相当な専門知識と費用がかかるだろう。

行政が二の足を踏むのもわかる。




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資料では恐らく校長先生の部屋があったはずの場所。

様々な用途に使われた校舎だったが、最後には作業所兼倉庫として使われていたらしい。





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二階のある部屋には小さな文机があった。

小学校の備品かどうかは分からないが、その上にアルバムがあった。

床が傾いていてかなり危険だったけど、当時のことが判るかもしれないと手を伸ばした。





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はい、全く関係なかったっス。


ところで、この校舎はネットですでに沢山出回っているのだけど一応名前は伏せた。

所有者様からガミガミ言われるといけないのでね(いまさら)。

有名過ぎるこの小学校に伏せるためとはいえ、勝手に名前を付ける訳にもいかぬということで仮名とした。

解体された後に実名に書き換える予定ヾ(*´∀`*)ノメンドクセー





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外に出た。

旅館として使われていたころの看板が残されている。

しかし地元の人が話すことも結構バラバラで廃校後は旅館、母子寮、役場、一階は芝居小屋で二階が宿泊所だったとか

キリがない程諸説出てくる。

どれも正解なのかもしれないよ、なにせ120年以上も建っているのだから。


校舎向かって右端に厨房があったが半壊していた。

泊まってみたかったなぁ。






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図書館で見つけた昭和時代の校舎写真。


はっきりとは分からないけどもこの写真は旅館時代の校舎だと思っている。


校舎の左手前にお酒の一升瓶やビールケースが見えるし二階壁の左端に看板のようなものが見えなくもない。


ちなみに小学校としての現役時、校庭の端に沿う形で桜と松が交互に植えられていた。




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前述したがこのこの小学校は大正6年に廃校となって、ちかくの県道沿いの土地に移転した。

今度は木造二階建てに平屋の特別室、講堂を配して北側に運動場を造った。

子どもが増えたというのもあるのだろうけども、小学校に通うことのできる子どもが増えたとも言える。

校舎は比べられないほど大きくなった。

この二代目校舎、もちろん現在は解体されている。






何度も改築されては新たな使命を与えられた小学校は明治、大正、昭和、平成を生き抜いた。

新元号まであと数か月。


だれも存在の理由がわからない


まるでシーラカンスの如きその校舎に、恐らく最後になるであろう別れを告げた。






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