亀ヶ首旧海軍工廠大砲試射場跡 ~北試射場編~
当時「軍都」と呼ばれ軍の関連施設が無数に建てられた広島だったが、とりわけ呉市は海軍の鎮守府としての役割を担い、その管轄は広く関西地方、中国地方、四国地方、そして中部地方の一部にまで及んだそう。
一体どういうことなのかわからない人もいるだろうが、僕もよくわかっていないので大丈夫だ。
とにかく僕はずっと気になっていたある戦跡に「廃サイド」の管理人であるかげとらさんと訪問した。
実は訪問したのが10カ月くらい前なのだけどこの物件は気合を入れないと記事が書けないと思ったので後回しにしていた。
長編になるので今回は二部に分けることにする。
ところでかげとらさんとの付き合いも結構長いなとこれを書いていて思った。
今回二人で探索した戦跡というのは「亀ヶ首試射場跡」だ。
その昔戦艦の大砲などの発射試験をしていた場所だ。
その歴史は古く明治34年には速射砲の発射試験が行われている。
まずこの亀ヶ首には当時「松ヶ浦試射場」「北試射場」「西試射場」「本試射場」「東試射場」が存在した。
全体の本部は「本試射場」に置かれていた。
しかし現在でも建物が残るのは「北試射場」と「本試射場」のみのようだ。
山の中を探せば日露戦争時代の大砲の台座などもあるみたいだ。

最初に北試射場から攻めたのだが山道への入り口が分からずかなり迷った。
最終的に画像の場所が入り口だと判断したので後者のために画像をあげときます。
ここから入ると中国電力のおっさん達が電柱点検のために踏みならした道があるのでそれを使えば比較的迷わず行けます。
「危ぶむなかれ。危ぶめば道はなし。踏み出せばその一足が道となる」って本当だな。猪木ありがとう。

さて僕たちは二度と来たくないと思わせるほどの藪こぎを経験してやっと北試射場に着いた。
振り返って降りてきた山を見ると帰りのことを思い憂鬱になる。
こんなときお互いを励ましあうことのできる仲間の存在がありがたい。

まず見えてきたのがガントリークレーンのあった船着き場だ。
当時ここから弾薬や砲身を積み下ろししていたらしい。

軍の関係施設には良質のコンクリートが使われたと聞くがこれだけちゃんと残っているとは驚いた。

よく見るとクレーンの枕木がそのまま残っている。マジかよ、スゲェな。

これは観測所。ネット上には「記録室」と書いてある資料もあった。

内部は何もなくて何故か壁や天井が黒い。
中でたき火をしたのか占領軍に焼き払われたのか。

観測所だけあって、となりに階段が設置され屋上に上れるようになっている。
そこから双眼鏡とかで実験を見ていたのだろうか。

もう少し奥に入ると「工員隠場(退避壕)」がある。
この戦跡は積極的に維持管理されていないので藪に踏み込めば踏み込むほどいろいろな跡が見えてくるのが面白い。

たっぷり時代がのって錆びついた鉄製の扉。

炊事場がある。ここは戦後民間人の住まいとして使われていたことがあったと聞く。

屋根はもう崩落寸前だがブロック壁は頑丈そのもの。
今までの風雪によく耐えたッスね。

退避壕奥の便所。下に甕が埋設されているボットン式。
僕は高校卒業するまでこういう便所だったんだ。

上下関係が絶対の軍では横の汲み取り穴から肥をとるのはやはり下っ端の仕事だったのだろう。
夏とか相当臭かったに違いない。
一杯になったらどこに捨てたんだろう?

さて次は「器具格納庫」だ。
どうやらこの建物は小さな食堂とも兼用していたようだ。

またまた熱い鉄製ドアが迎えてくれる。

しかも錆さびの鍵付き。たまんねぇ。
ちなみに戦後の混乱期、この亀ヶ首にはたくさんの鉄泥棒が押し寄せた。
ガントリークレーンのレール、機材や砲身までが略奪されたらしい。
金属の売買のために集まった人だかりで付近の村はたいそう潤ったそうな。

さて、中は戦後に誰かが農機具倉庫として利用していたみたいだ。
かなり古いものがたくさん置いてあった。

どれも古いものばかりで30年以上前から放置されているらしい。

こちらは何もない。なんとなく大久野島の戦跡を思い出す。

このトンネルは北試射場の射座に出られるはずのもの。

この時、僕たちはすべてを見たと勘違いしてしまい持参した資料を確認することもなくさっさと本試射場に向かってしまう。
実は先ほどの資材置き場のさらに奥には火薬庫や武器庫が現在もその姿を残していた。
10か月たった今でもそのことを思うと悔やまれる。
いつかまたリベンジしようと思うがあの藪こぎを思うとなかなか腰があがらない。
ところで誰か船持ってない?
本試射場へ続く

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一体どういうことなのかわからない人もいるだろうが、僕もよくわかっていないので大丈夫だ。
とにかく僕はずっと気になっていたある戦跡に「廃サイド」の管理人であるかげとらさんと訪問した。
実は訪問したのが10カ月くらい前なのだけどこの物件は気合を入れないと記事が書けないと思ったので後回しにしていた。
長編になるので今回は二部に分けることにする。
ところでかげとらさんとの付き合いも結構長いなとこれを書いていて思った。
今回二人で探索した戦跡というのは「亀ヶ首試射場跡」だ。
その昔戦艦の大砲などの発射試験をしていた場所だ。
その歴史は古く明治34年には速射砲の発射試験が行われている。
まずこの亀ヶ首には当時「松ヶ浦試射場」「北試射場」「西試射場」「本試射場」「東試射場」が存在した。
全体の本部は「本試射場」に置かれていた。
しかし現在でも建物が残るのは「北試射場」と「本試射場」のみのようだ。
山の中を探せば日露戦争時代の大砲の台座などもあるみたいだ。

最初に北試射場から攻めたのだが山道への入り口が分からずかなり迷った。
最終的に画像の場所が入り口だと判断したので後者のために画像をあげときます。
ここから入ると中国電力のおっさん達が電柱点検のために踏みならした道があるのでそれを使えば比較的迷わず行けます。
「危ぶむなかれ。危ぶめば道はなし。踏み出せばその一足が道となる」って本当だな。猪木ありがとう。

さて僕たちは二度と来たくないと思わせるほどの藪こぎを経験してやっと北試射場に着いた。
振り返って降りてきた山を見ると帰りのことを思い憂鬱になる。
こんなときお互いを励ましあうことのできる仲間の存在がありがたい。

まず見えてきたのがガントリークレーンのあった船着き場だ。
当時ここから弾薬や砲身を積み下ろししていたらしい。

軍の関係施設には良質のコンクリートが使われたと聞くがこれだけちゃんと残っているとは驚いた。

よく見るとクレーンの枕木がそのまま残っている。マジかよ、スゲェな。

これは観測所。ネット上には「記録室」と書いてある資料もあった。

内部は何もなくて何故か壁や天井が黒い。
中でたき火をしたのか占領軍に焼き払われたのか。

観測所だけあって、となりに階段が設置され屋上に上れるようになっている。
そこから双眼鏡とかで実験を見ていたのだろうか。

もう少し奥に入ると「工員隠場(退避壕)」がある。
この戦跡は積極的に維持管理されていないので藪に踏み込めば踏み込むほどいろいろな跡が見えてくるのが面白い。

たっぷり時代がのって錆びついた鉄製の扉。

炊事場がある。ここは戦後民間人の住まいとして使われていたことがあったと聞く。

屋根はもう崩落寸前だがブロック壁は頑丈そのもの。
今までの風雪によく耐えたッスね。

退避壕奥の便所。下に甕が埋設されているボットン式。
僕は高校卒業するまでこういう便所だったんだ。

上下関係が絶対の軍では横の汲み取り穴から肥をとるのはやはり下っ端の仕事だったのだろう。
夏とか相当臭かったに違いない。
一杯になったらどこに捨てたんだろう?

さて次は「器具格納庫」だ。
どうやらこの建物は小さな食堂とも兼用していたようだ。

またまた熱い鉄製ドアが迎えてくれる。

しかも錆さびの鍵付き。たまんねぇ。
ちなみに戦後の混乱期、この亀ヶ首にはたくさんの鉄泥棒が押し寄せた。
ガントリークレーンのレール、機材や砲身までが略奪されたらしい。
金属の売買のために集まった人だかりで付近の村はたいそう潤ったそうな。

さて、中は戦後に誰かが農機具倉庫として利用していたみたいだ。
かなり古いものがたくさん置いてあった。

どれも古いものばかりで30年以上前から放置されているらしい。

こちらは何もない。なんとなく大久野島の戦跡を思い出す。

このトンネルは北試射場の射座に出られるはずのもの。

この時、僕たちはすべてを見たと勘違いしてしまい持参した資料を確認することもなくさっさと本試射場に向かってしまう。
実は先ほどの資材置き場のさらに奥には火薬庫や武器庫が現在もその姿を残していた。
10か月たった今でもそのことを思うと悔やまれる。
いつかまたリベンジしようと思うがあの藪こぎを思うとなかなか腰があがらない。
ところで誰か船持ってない?
本試射場へ続く

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当時の建築に関する職人のセンスってとても魅せられますね。
なぜ最近の建物はつまんないのでしょうか・・・。