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廃れゆく部屋

皆さん、廃でお会いしましょう


Category: 廃れゆく施設   Tags: ---

伝説の糸崎病院(探索遍)




明治時代も終わりにさしかかる頃、ある男性が福岡県と岡山県を汽車で往来していた。

汽車が広島県糸崎町鉢が峰山麓の「六本松」にさしかかった時、

彼の目に芸予諸島の美しい景色が飛び込んできた。

男性はその景色を「世界一美しい眺め」と感嘆し、温暖な気候も決め手となって弟子であった松本和夫氏に

結核療養所を造らせた。

男性の名は「桂田富士郎」。

当時、彼は岡山医学専門学校(現岡山大学医学部)教授と福岡医科大学(現九州大学医学部)教授を兼務し、

「日本住血吸虫」の発見者、および研究者でもあった。

糸崎療養所の跡地に昭和9年に建てられた石碑の一文には、

「(桂田富士郎先生は)糸崎の自然美は実に天下に其比を見ざることを高唱し且つ病者並びに虚弱者の健康創造に向って絶好の

適地たることを力説せられたり而て、門下松本和夫氏を督して鉢が峰山麓を拓いて病院を創建せしめ之を糸崎療病院と名け

自ら指導の任に膺りて大いに救世済民の実を挙げられたり・・・」とあった。

今回はその糸﨑療病院について僕が知り得た限りをお伝えしたい。






itosaki1.jpg



この絵葉書には「備後国 糸崎港六本松 糸崎療病院」とある。

杖を持った紳士が歩いているのは現在の国道2号線だ。

線路を渡った先には坂道があり、その先に石柱が見える。

坂道の登り口には病院関係者の為にか郵便ポストが見える。



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2020年2月現在のほぼ同じ場所だ。

踏切の奥には同じ坂道が見える。

明治時代も終わりを迎えるころ、この坂を上った先に結核療養所が建てられた。

当時結核は「国亡病」と言われ年間死者数は10数万人に上り、死亡原因の第一位だった。



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防風林として植えられたものか自生したものかは不明だが、むかしこの地には松が生えていた。

六本松という名称はその頃の名残だろう。



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古い糸崎の写真には、海沿いに立派な松の木が写っている。

ちなみにこのボンネットバスは国道2号線を糸崎から尾道に向っている。





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さて、今回は廃墟仲間のかげとらさんとこの糸崎療病院跡の調査探索に来た。

この病院は平成3年くらいに解体されているためすでに存在していない。

なのにわざわざカメラを持っておっさん二人はやってきた。

かげとらさんとはもう10年近くなる付き合いだが、山城の石垣や曲輪跡でも十分満足するマニアで

そういう人物でなければ何も無くなった昔の病院跡に気軽には誘えない。

感謝しています。



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上がる途中、右手に門柱が見える。

しかしこの門柱はおそらく昭和に入ってから設置されたもので大正時代の病院の写真には出てこない。




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最初のほうで引用した石碑の一文というのはこの石碑のことで、坂を上る途中に見える。

この石碑の上部には「桂田浜」とあり、内容としてはここに結核療養所が建てられることになった所以と

その後大正14年に同療養所が日本赤十字社に移管したあとも桂田先生の熱誠なる指導に感謝を示し

糸崎療養院一帯の地域を桂田浜と名付けたということが書いてある。

因みにこの石碑の大額は広島藩最後の藩主、浅野長勲が書いたもの。

つまり昔、広島城が自分の家だった人だ。

「最後の殿様」と言われ昭和天皇の養育係もしていた人がなぜ桂田浜の石碑の大額を書いたのか。

糸崎の歴史に詳しい方にお聞きすると、当時浅野長勲は頼まれればホイホイと書いていたそうで

糸崎神社の標柱も彼が書いたものだ(この神社は浅野家と繋がりもある)。

長勲が94歳で亡くなる3年前にこの石碑の大額を書いたということになる。





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草木が茂る広い場所に出た。

ここにはかつて、昭和6年7月に建てられた赤十字病院糸崎療養所があった。

何もないことは分かっていたが、やはりとても寂しい。

僕とかげとらさんは病院の名残が無いかそれこそ藁の中から針を探すような気持ちで慎重に歩いた。



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色々な煉瓦やタイルなど、解体した後の瓦礫があちらこちらに落ちている。

しかしはっきり病院だったという名残のアイテムがなかなか見つからない。




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さらに奥に進むと、先ほど上ってきた坂道と反対側に降り口があるのが分かった。




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そこから線路側に下った所で、どうやら大正時代に整備されたらしい登り口が見つかった。




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そのすぐ近くで最初の病院アイテムが見つかった。

古い廃医院などでお馴染みのガラスの注射器だ。

これが見つかった時は「ああ、やっぱり昔ここが病院だったのだ」と、知っているのになぜか再度納得した。



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近くには病院利用者の為のものか古井戸があった。

この鉢が峰一帯には昔から井戸水が豊富で糸崎神社の社伝によると

「神功皇后が長井の浦に船を繋ぎ、この井戸の水を求めた事に因んでその水を長井の水と称し、当地を長井の浦と称すと伝わる。長井の浦は井戸崎(いどさき)ともいい、現地名の糸崎(いとさき)のはじめとされる」(糸崎神社ウィキより)。

ただし三原市在住の歴史家によると井戸﨑が転じて糸崎となったという説には矛盾点もあるとのことだった。ようわからん。

話が脱線しまくりでメンゴメンゴ。



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itosaki14.jpg


その後、小さな薬瓶がいくつか見つかった。

もう何もないと思っていたこの場所にはいくつか病院アイテムが残っていた。

こういうのを探しながら歩いているのがすごく楽しくて夢中になっていた。

やべー、スッゲー楽しい。



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こういう土砂崩れが起きる前ならもっと色んなものが見つかったかもしれない。



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本館跡の探索後は一号棟、二号棟跡に向う。

これらは本館跡よりもさらに高い場所にあり、この「一号棟・二号棟」こそが明治時代末期に桂田富士郎先生監修のもと

建てられたとされる「糸崎療病院」だった。




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恐らくだが一号棟跡。

ここには何が残っているのか。



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同じ様に二人で探していると今度は瓦礫の中から大き目の薬瓶が出てきた。

糸崎療病院の噂で聞いたのは、肝試しに入った者が胎児のホルマリン漬けを見たというものだった。



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それかどうかは知らんけどホルマリン漬け用っぽいガラス容器が出てきた。

他にも・・・


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ここでかげとらさんと話していたのは、どうも瓦が残り過ぎているということだった。


というのも、前述したように糸崎療病院は平成になってすぐ解体された。


普通解体業者は瓦礫の撤去も含めた作業をするはずで、それにしては瓦などの残骸が残り過ぎている。





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これはあくまで予想だが、解体されたのは糸崎療病院が日赤(日本赤十字)病院に移管した時に建てられた本館のほうで、

明治後期に建てられた一号棟、二号棟は自然倒壊したのではないかということだ。

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写真が下手で申し訳ないが、これは一号棟の基礎。

業者が撤去したならこんなに基礎部分を残さないと思うのだが。




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それ以外にセメントで造られた枡状のものや手洗い場のような物が見える。



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これは一見分かり辛いが、よく見るとパイプベッドだった。

入院患者用のベッドの鉄枠が朽ちていた。

一号棟跡を探索している時、二号棟跡を探索中のかげとらさんがあるものを見つけたと声をかけてきた。

薬瓶が大量に見つかった事で十分満足していた僕はこれ以上何があったのか期待で胸が躍った。



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そこには「答え」が落ちていた。

まさにこれが単なる「病院跡」ではなく「日赤糸崎療養院跡」である証明。

おっさん二人は糸崎の木立の中で何とも言えない満足感、達成感を感じた。





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それからさらに上に登っていく。

この右手にある空き地に当時「外気小屋」があったのではないかと思う。

三原中央図書館で見つけた医師会記録の中に「第一号病棟に外気小屋二棟」とある。

外気小屋は「外気舎」とも呼ばれ、イギリスでは結核患者を風通しの良い小屋に隔離し個別に生活させるこで

菌の蔓延を防ぎつつ療養をさせるという考え方があった。

日本では茨木県の「村松晴嵐荘」が有名だが、ほとんどの療養所ではその建物の中に外気小屋の機能をもった部屋を

造るというのが多かったようだ。

なのでこのスペースに外気小屋があったかどうかは断言できない。




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もしそうではないとすればこの一番高い場所に建てられた便所は誰の為のものだったか。


ひょっとしたら先生たちの宿舎だったのだろうか。






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かげとらさんが「一輪挿しの便所」と名付けたこのトイレだけが解体を逃れ当時のまま残っている。



これで「探索遍」は終わる。

「資料編」ではその名の通りで色々な資料を紹介しながらこの謎の解明に迫っていく。



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それでは「糸崎病院(資料編)」へ。



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02 29 ,2020 Edit


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Comments

コメントありがとうございます
尾道市情報探索人さん>
コメントありがとうございます!
ここはずっと調査したかったところです。分からなかった事がパズルのピースがはまっていくようで楽しかったです!残留物も沢山ありました。
糸崎病院は心霊スポットの類いで名の知られた場所ですね。
よく場所を特定され探索されたものと思います。
やはり病院跡地には、いろんな残留物がありますね。

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